第174回 明治22年の町村合併
久喜市は、平成22年(2010)3月23日に、「平成の大合併」で、旧久喜市、菖蒲町、栗橋町、鷲宮町が合併して誕生しました。市町村合併は、平成の大合併の前にも、昭和の大合併、明治の大合併がありました。今回は、久喜地区周辺の明治の大合併について紹介します。
明治21年(1888)、明治政府は法律第一号として「市制・町村制」を公布しました。公布に先立って、同制度の実施に耐えうる市町村という観点から、大掛かりな町村合併の準備を開始しました。明治19年(1886)末の全国の町村数は71,000余で、そのうち7割は100戸以下で、住民が1人もいない町村が801もありました。
埼玉県では、各町村約300戸以上のものを標準とし、特別の事情があるものを除き、すべて300戸以上から概ね400戸未満の町村に合併させる方針を定めた「町村合併標準」を定め、各郡長に町村編成案を作らせました。
南埼玉郡役所がまとめた久喜地区周辺の明治20年(1887)の合併案は、別図のとおりでした。
しかし、この合併案は、数字合わせの机上案であったことから、このまま実施できるものではありませんでした。このため、政府は、「町村郡市区画標準案」をまとめ、各府県知事あてに内務大臣訓令を発しました。明治21年6月、埼玉県では、合併方針と調査に関する訓令を各郡長に対して発し、この訓令に基づき各郡長は具体案の作成を開始しました。
南埼玉郡では、郡下の戸長(こちょう)で地理民情に明るい10余名を顧問とし、郡役所委員らと相談のうえ新町村の区域を仮定し、これを郡の戸長の会議で修正させました。各戸長が所轄内の町村議員及び総代人等に諮問し、議員、総代人の連署をもって合併承認の意が上申(じょうしん)されました。
この結果、明治22年(1889)、埼玉県内で1,900余もあった町村が371の新町村に整理され、久喜地区では、新たに久喜町、太田村、江面村、清久村が誕生しました。
もし、南埼玉郡役所が最初にまとめた久喜地区の明治20年の合併案が実現していたら、現在とは異なる久喜市域になっていたのかもしれません。
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