第166回 深沢七郎(ふかざわしちろう)と田中清玄(たなかせいげん)の偶然
昭和58年(1983)のカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞した映画の原作『楢山節考(ならやまぶしこう)』を書いた作家である深沢七郎(1914~1987)は、久喜市菖蒲町上大崎在住でした。深沢が昭和43年(1968)に出版した著作の『百姓志願(ひゃくしょうしがん)』によれば、家政婦の出身地が菖蒲町であり、土地を売ってもらったので菖蒲に移り住んだとあります。
深沢は、昭和35年(1960)に雑誌『中央公論』で発表した『風流夢譚(ふうりゅうむたん)』において世間に物議をかもし、昭和36年(1961)、小説の内容に憤(いきどお)った犯人により、中央公論社の嶋中(しまなか)社長宅で家政婦が命を落とす「嶋中事件」の原因を作ってしまいました。
追われる身となった深沢は、放浪生活を余儀なくされていましたが、昭和40年(1965)11月、長年の夢であった農業生活をするため菖蒲町上大崎に農地を購入し、アメリカのロック歌手エルヴィス・プレスリー(1935~1977)の歌から名前を付けたラブミー農場を開きます。農場では野菜を作ったり文化人と対談したり地元の農家の人達と交流しました。
さて、放浪の原因となった「嶋中事件」ですが、『中央公論』の編集者であった中村智子(なかむらともこ)氏の著作『風流夢譚事件以後』によれば、日本の政財界のフィクサーと呼ばれていた田中清玄(1906~1993)が嶋中社長の知り合いを通じて、昭和36年(1961)に善後策を講じたと書かれています。また、『田中清玄自伝』にも、「嶋中事件」を終わらせるために、嶋中社長等と話をまとめたとも書かれています。
実はこの田中清玄という人物、菖蒲町にゆかりがありました。田中が戦前期に旧ソ連の政治組織の指示を受けて政治運動をしていた昭和4年(1929)7月、菖蒲町の料亭で秘密会合を開いています。また、菖蒲文化会館近くにある見沼弁財天(みぬまべんざいてん)(星川弁天(ほしかわべんてん))のお堂に潜伏していたとも伝わっています。このお堂の近所に、全くの偶然ながら深沢のラブミー農場がありました。
田中のまとめた嶋中事件の善後策の中身は伝わっていませんが、事件終結後、深沢は誰からも追われることなく菖蒲町を終焉の地にすることができました。この深沢と田中に関する菖蒲町の不思議な縁については、今後の研究が待たれます。
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