第167回 写生旅行で描かれた「雪の栗橋」と「利根川の一夜」
風景を実際に見て絵を描くことを目的とした写生旅行(またはスケッチ旅行)は、明治30年代から主に洋画家の間で広く行われました。画家達は旅行先で風景画を描くのみならず、土地の風俗や旅のエピソードなどを書き残し、美術雑誌等に紀行文として掲載しました。
明治期を代表する洋画家の一人で、田山花袋(たやまかたい)の小説「蒲団(ふとん)」の口絵を担当したことでも知られる小林鍾吉(こばやししょうきち)(1877~1946)は、明治41年(1908)に出版した『画行脚(えあんぎゃ)』で、栗橋を訪問した様子を「雪の栗橋」と題し紀行文と挿絵で紹介しています。小林は利根川沿いで雪の風景を描くために上野から鉄道列車で栗橋へ向かい、川魚料理屋兼旅館として知られた稲荷屋(いなりや)や栗橋関所の跡地などを訪れます。小林は稲荷屋の2階から見た利根川を「藍墨(あいずみ)の様な大河」と表現し、辺りが雪で白一色の中、音もたてず流れる利根川の雄大さを伝えています。
また、当時の栗橋地区では、利根川の流れを利用した舟や蒸気船が主要な交通手段として利用されており、小林もこれらに乗船しています。四方を河川に囲まれている当地区には複数の渡船場があり、船頭が人や荷馬(にうま)などを運ぶ役割を担っていました。小林は、栗橋と利根川対岸の中田(なかだ)(現茨城県古河市)間を結ぶ「房川(ぼうせん)渡し」で白い馬を連れた馬子(まご)と居合わせており、付近に建つガス燈とともにその光景をスケッチしています。さらに、栗橋は内国(ないこく)通運会社(現日本通運株式会社)の蒸気船「通運丸」の寄港地の一つでした。通運丸は明治10年(1877)から就航され、利根川をはじめ関東各地の河川沿いの地域を繋いでいました。小林が乗船した船内には若い学生や農家の高齢男性、工場勤めの少女などが乗り込んでおり、老若男女問わず多くの乗客で活気にあふれた光景を伝えています(同書「利根川の一夜」)。
小林が描き出した栗橋での体験は、利根川とともに生きる栗橋の人々の姿を現代に伝えています。
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