第161回 本多(ほんだ)まつ江(え)の激動の人生

ラインでシェア
Xでポスト
フェイスブックでシェア

ページ番号1010686  更新日 2025年5月15日

印刷大きな文字で印刷

 大正11年(1922)3月の久喜高等女学校第一回卒業アルバムに、本多まつ江(1889~1969)という教師の写真が掲載されています。まつ江は長野県出身で、東京の和洋女子専門学校(現・和洋女子大学)を卒業後、松本女子職業学校の助教諭や長岡高等女学校の教諭を経て、正確な時期は不明ですが大正後期には久喜高等女学校の裁縫の教諭を務めていました。

 まつ江は、大正5年(1916)に同郷の縁から政治活動家の川島浪速(かわしまなにわ)(1866~1949)の養女の川島芳子(かわしまよしこ)(1906~1948)の家庭教師に抜擢(ばってき)された人物でした。芳子は、清朝の皇族出身で、本名は愛新覚羅顯㺭(あいしんかくらけんし)といい、8歳の時に養女(但し未入籍)となり、寂しい思いをしながら日本で過ごしていました。まつ江は東京の川島邸に住み込みで働き、良き教師であり話し相手でもあり、特に慕われていたそうです。

 その後、まつ江は大正10年(1921)に結婚、アメリカのコロンビア大学へ単身留学もしています。

 教え子の芳子は、映画『ラストエンペラー』でも描かれていましたが、清朝最後の皇帝の愛新覚羅溥儀(ふぎ)(1906~1967)の皇后である婉容(えんよう)(1906~1946)を天津(てんしん)から連れ出す工作に携わったとされています。

 第二次世界大戦終結後、芳子は中国国民党軍に逮捕され、中国に対する裏切り者として裁判を受けていたことから、まつ江は、日本で三千人以上の署名を集め助命嘆願書を提出しようとします。上坂冬子(かみさかふゆこ)の『男装の麗人・川島芳子伝』によれば、当時の中華民国総統の蒋介石(しょうかいせき)(1887~1975)の妻の宋美齢(そうびれい)(1898~2003)とも面識があったことから、北京に嘆願書を届けるべく準備をしていたところで芳子の死を知り、卒倒したと書かれています。芳子の獄中書簡の一節に「このわたしが死んだと聞いて悲哀の涙にかきくれ心から歎(なげ)いて下さるのは赤羽(まつ江の旧姓)のお母様だらう」という一文が書き残されていました。

 昭和35年(1960)、名古屋拘置所で教誨師(きょうかいし)として活躍し、昭和44年(1969)に亡くなります。本多まつ江の激動の人生は、現代社会を生きる人々に平和の尊さを教えてくれるのではないでしょうか。

「本多まつ江」の写真
「本多まつ江」の写真(郷土資料館蔵)

このページに関するお問い合わせ

教育部 文化振興課 文化財・歴史資料係
〒340-0295 久喜市鷲宮6丁目1番1号
電話:0480-58-1111 ファクス:0480-31-9550
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。