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第41回 遷善館(せんぜんかん)

更新日:2018年7月25日

「新建久喜遷善館記」碑は、亀田(かめだ)鵬斉(ほうさい)の文および書により、遷善館の由来を刻んだ碑で、文化5年(1808)に建てられました。碑は明治11年(1878)の久喜町の大火で失われてしまいましたが、幸いなことにその拓本(たくほん)(紙にあてて刻まれた文字を写しとったもの)が残されていました。そこで、郷土の誇りである遷善館を後世に伝えるために、その拓本をもとに碑を平成8年(1996)、久喜市公文書館の前庭に復刻しました。

遷善館は江戸時代後期、久喜の主だった人々の強い要請を受けて、代官早川(はやかわ)八郎左衛門正紀(はちろうざえもんまさとし)が幕府の許可を得て、享和3年(1803)に設立した郷学(ごうがく)(武士のための藩校と一般庶民のための寺子屋の中間に位置する官民一体となった教育機関)です。早川八郎左衛門正紀は、享和元年、久喜に赴任(ふにん)してきて善政を行った名代官です。

遷善館が設立された場所は久喜本町で、伝承によれば現在の久喜中央4丁目のあたりだといわれています。造営費は村民の井上(いのうえ)清兵衛(せいべえ)が多くを負担しましたが、そのほかにも多くの人々が協力したといわれています。また、幕府も許可の際、敷地を与えるとともにその年貢(ねんぐ)と夫役(ぶやく)(土木工事などの労働課役)を免除して援助しています。

遷善館の教育は、広く一般庶民を対象とする教諭日(きょうゆび)と町村の役人層の子弟を対象とする経書(けいしょ)(儒教(じゅきょう)の経典で、四書・五経など中国古代の知識・人格に優れた人物の教えを記した書物)の講釈日(こうしゃくび)からなっていました。教育にあたった儒者は、亀田鵬斉、その子綾瀬(りょうらい)、大田錦城(おおたきんじょう)、久保(くぼ)筑水(ちくすい)らです。

遷善館は、「埼玉県史料叢書(そうしょ)4」によると、文政3年(1820)吉岡治郎右衛門(よしおかじろえもん)支配中に廃止されました。

今でも、久喜小学校、本町小学校、久喜中学校、久喜北陽高等学校の校歌の歌詞の中には、「遷善館」の文字が見られます。

(備考)一部追記したため、「広報くき」掲載時とは文章が異なる部分があります。

写真 「新建久喜遷善館記」碑
 「新建久喜遷善館記」碑

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