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第17回 「撫山先生終焉之地」碑(「ぶざんせんせいしゅうえんのち」ひ)

更新日:2018年6月28日

この碑は、中島撫山没後に、六男田人(たびと)が亡父の偉業をたたえるために建てた碑で、久喜中央2丁目にあります。

撫山は、文政12年(1829)4月10日、江戸亀戸(かめいど)(東京都江東区)に生まれました。江戸末期の学者で文人として名高い亀田鵬斎(ほうさい)の子綾瀬(りょうらい)(ともに久喜遷善館(せんぜんかん)教授)や孫鶯谷(おうこく)に師事し、亀田鵬斎の学問を継承した明治期における中心的な存在でした。

撫山は、明治2年(1869)に現久喜市本町1丁目に移り、同5年に本籍を久喜本町に移しました。同6年には私塾「幸魂(さきたま)教(きょうしゃ)舎」を開き、漢学(論語など)や和学(日本書紀・古事記など)を教えました。同塾を同42年(1909)に久喜中央2丁目に移転後、同44年、83歳(数え年・満年齢では82歳)でこの地で没しました。墓所は本町1丁目の光明寺にあります。

門弟は、埼玉県東部地域を中心に近県までに及び、国会議員・県議会議員・町村長などのほか、郷土の経済・文化の面で中心となって活躍しました。

また、明治44年の撫山没後には、田人の長男敦(あつし)が久喜に引き取られ、2歳から5歳まで(満年齢)ここで生活しました。

敦の作品「李陵(りりょう)」「斗南(となん)先生」「狼疾記(ろうしつき)」「かめれおん日記」などには祖父撫山、6人の伯父(叔父)たち、父田人などの生き方や中島家の家学の伝統が色濃く反映されています。また、「光と風と夢」は芥川賞候補となり、「山月記(さんげつき)」は現在、高等学校の現代国語の教科書に載っています。

撫山終焉の地は、このように郷土の人材を育成した場であるとともに、現代文学に光を放った中島敦文学の原体験の場であるという二つの意味を持ち、久喜市にとって貴重な文化遺産であり、市指定有形文化財となっています。

写真 「撫山先生終焉之地」碑
「撫山先生終焉之地」碑

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