第82回 幻の武州(ぶしゅう)鉄道
更新日:2018年12月3日
大正13年(1924)10月19日から昭和13年(1938)8月22日まで、わずかな期間県中央部を縦断する鉄道がありました。当初の計画どおり路線がすすまなかったこと、また短命であったことから、「幻の鉄道」あるいは「悲運の鉄道」とも呼ばれています。
この武州鉄道の始まりは、明治43年(1910)11月5日に許可された中央軽便電気鉄道株式会社です。この会社は軽便鉄道法に準拠したもので、本社は東京に置かれました。当初路線の計画は東京から日光までとなっており、菖蒲町(当時)にも駅舎が計画される予定(現菖蒲東小学校北側)で、南埼玉郡菖蒲町菖蒲392-2、395-3、448-2、451-3、452-4、454-3の土地所有権を武州鉄道が取得していました。
翌明治44年(1911)7月に、社名は中央鉄道株式会社と変更され、資本金60万円で運営されることになりました。まず、北足立郡川口町を起点として、同郡鳩ヶ谷(鳩ヶ谷市)・安行(あんぎょう)村(川口市)・大門(だいもん)村・野田(のだ)村・南和土(みなみわど)村・柏崎(かしわざき)村・岩槻町(以上さいたま市)及び菖蒲町・北埼玉郡加須町を経て忍(おし)町に至る、旅客貨物を輸送することを中心とした軽便鉄道を敷設し、これに関連してから東京まで曳船で貨物を輸送する事業と、後に除かれた鉄道沿線町村に電灯・電力を供給する事業が掲げられました。
このうち鉄道の敷設は大事業で、岩槻―蓮田間、6.4キロメートルが開通したのは大正13年(1924)年10月19日で、明治43年に中央軽便鉄道が設立されて以来、実に14年後のことでした(大正8年7月6日に社名を「武州鉄道株式会社」と変更、本社を岩槻町におく。資本金85万円)。その間、第一次世界大戦(大正3~7年)とその後の不況により資金調達困難になり、工事は停滞気味であったばかりでなく、いったんは用意した汽車・客車を売却するという苦境に陥り、更には差し押さえられ競売に付されるほど経営難に追い込まれました。結局開通された区間は、神根(かみね)(川口市)から蓮田間で終わりました。
※青色部分は武州鉄道株式会社が所有していた土地。右下黒枠内は、現在の菖蒲東小学校の敷地。
所在地
菖蒲東小学校周辺
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