第68回 米津(よねきつ)氏と久喜藩の成立
更新日:2018年7月25日
久喜藩は、貞享(じょうきょう)元年(1684)に、父親の田盛(たもり)の領地を引き継いだ米津政武(まさたけ)が、武蔵国埼玉郡久喜本町(ほんまち)に陣屋を構えて成立した譜代(ふだい)の藩になります。
江戸近郊ということもあり、藩領の村々は時代によって変遷があるものの、久喜本町、久喜新町(しんまち)、古久喜(こぐき)村、野久喜(のぐき)村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村等を中心にした地域に、現在の白岡市、蓮田市、加須市、新座市や、東京都、千葉県、茨城県の一部の村々も含めて、合計するとおよそ一万二千石の領地でした。
政武の祖父の田政(たまさ)は、徳川家康・秀忠に仕え、小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦い、小田原の役(えき)、上杉景勝(かげかつ)の征討(せいとう)、上田城の攻防戦等に参加した三河(みかわ)武士であるとともに、江戸の町奉行も勤めるほどの人物でした。
政武の父の田盛も、小姓組番頭(こしょうぐみばんがしら)、書院番(しょいんばん)番頭、大番頭(おおばんがしら)、大坂定番(おおさかじょうばん)などの番方の役職を転々と勤め、武備(ぶび)を受け持ちながら一万五千石に加増(かぞう)され、旗本から大名に列せられた人物です。
田盛が没し、貞享元年3月に政武が家督を継ぐと、三千石を弟の田賢(みちかた)に分知(ぶんち)したうえで、久喜本町に陣屋を構えて久喜藩が成立しました。現在の中央公民館を西角に、御陣山児童遊園を北角に配した六千坪程度の範囲といわれています。
政武は、貞享4年(1687)5月に寺社奉行になり、その後解任や赦免(しゃめん)などもあったものの、元禄(げんろく)11年(1698)11月に職を退き、宝永(ほうえい)5年(1708)6月に亡くなります。
ちなみに、田政の伯父の米津常春(つねはる)は、本市ゆかりの内藤正成(まさなり)とともに「徳川十六神将(しんしょう)」の一人に挙げられる江戸幕府の礎を築いた貢献者でもあります。
明治時代に書かれた米津氏陣屋跡の図(国立公文書館蔵)
所在地
中央公民館(久喜中央4-7-7)
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