このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動
サイトメニューここまで

本文ここから

第64回 鷲宮神社の神主・大内泰秀

更新日:2017年8月28日

 戦国時代末から明治時代の初めまでの鷲宮神社の神主職は、大内氏が世襲していました。
元禄16年(1703)に作成された大内家由緒書には、「大内家は、代々武家としての由緒を守り、鑓を持ち、鉄砲30挺を所持することが幕府から認められている」との記述があり、現在の神主の姿とは大分異なっていました。
泰秀は、天文21年(1552)の生まれで、古河公方足利義氏の元亀3年(1572)の手紙に、新次郎の名で初めて登場します。その後の古河公方足利氏や北条氏(小田原を拠点とした戦国大名)との関係資料の中でも、弾正少弼や甲斐守といった官途・受領名でその動向が確認できます。
泰秀の逸話の中では、次の2つが重要です。
一つは、天正19年(1591)11月、関東入封後間もない家康から400石の社領寄進を受け、文禄4年(1595)、戦国時代の混乱で荒廃していた社殿を再興することに成功します。
 もう一つは、慶長5年(1600)7月、徳川家康が会津の上杉討伐に出陣したとき、泰秀も途中の栗橋(茨城県五霞町の元栗橋のこと)まで出馬しました。家康が利根川に架けられた船橋(水面に船を並べて作った臨時の橋)を渡っていたとき、突然船橋を支える虎綱が切れます。傍らにいた泰秀は、とっさに川の中に飛び込み、船橋が流出するのを食い止め、無事家康を対岸に渡しました。家康は、この忠節にたいそう感じ入り、紋付蒔絵の銚子と盃、また三条宗近作の太刀や葵の紋付、馬等を、泰秀に下賜しました。拝領した銚子・盃は、現在も鷲宮神社に伝えられています。
 こうして激動する時代にあって近世の鷲宮神社の大きな基礎を築いた大内泰秀でしたが、慶長7年(1602)6月、50余年の生涯を閉じました。

銚子・盃
銚子・盃

このページに関するお問い合わせ

教育部 文化財保護課
〒346-0033 久喜市下清久500番地1
電話:0480-22-5555 Eメール:bunka@city.kuki.lg.jp
メール送信フォームを利用する

本文ここまで

サブナビゲーションここから

広報連載久喜歴史だより

情報が見つからないときは

サブナビゲーションここまで

以下フッターです。
〒346-8501 埼玉県久喜市下早見85番地の3
電話:0480-22-1111(代表)
ファックス:0480-22-3319
開庁時間:8時30分から17時15分まで
閉庁日:土曜日、日曜日、祝日、年末年始