第26回 梅澤太郎右衛門の墓(うめざわたろううえもんのはか)
更新日:2018年7月25日
久喜市栗橋東の浄信寺(じょうしんじ)境内に市指定文化財梅澤太郎右衛門の墓があります。梅澤太郎右衛門はこの浄信寺を建てた人物と伝えられ、この他江戸時代初頭の日光道中栗橋宿(くりはしじゅく)が成立する時代に活躍した事績が今日に伝わっています。
明治時代初期に編さんされた『武蔵国郡村誌(むさしのくにぐんそんし)』によれば、戦国時代、太郎右衛門は現在の神奈川県小田原市を本拠とする戦国大名後北条(ごほうじょう)氏の家臣でした。天正18年(1590)後北条氏滅亡後は、小田原周辺に居住した後、慶長5年(1600)に、父とともに栗橋宿に移住したといわれています。
栗橋宿は慶長年間(1596~1615)に池田鴨之助(いけだかものすけ)、並木五郎平(なみきごろべい)らが下総国(しもうさのくに)葛飾郡元栗橋(茨城県五霞町)の住人を引き連れ移住し、開発されたと伝えられています。太郎右衛門が栗橋に移住してきた時期もまさに宿場町が建設されている時期でした。
また、19世紀前半に江戸幕府が編さんした『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』によれば、元和8年(1622)将軍徳川家光が日光東照宮(栃木県日光市)を参詣する際、栗橋の地で利根川を渡ろうとしたところ、川は増水し、大風が吹きつけ通行困難な状況にありました。太郎右衛門は危険を顧みず、川の中に入り、将軍が通行するために設置した船橋(ふなばし)が流されるのを引き留めました。この褒美として、幕臣伊奈忠治(いなただはる)から貞宗(さだむね)の刀と扇子を与えられると共に、利根川両岸の新田開発を命じられました。その後、将軍が再びこの地を通行し、栗橋宿の対岸中田(なかだ)宿(茨城県古河市)の大塚の上で休憩していた際、太郎右衛門は自らが開発した新田の広さを知らせるため、狼煙(のろし)を上げてその広さを伝えました。将軍はこの新田開発の功績を賞した文書を与えると共に、川の堤防修築も行うよう命じました。
この後、太郎右衛門は伊奈忠治の家臣となり、その子孫は代々栗橋宿の名主(なぬし)を勤め、江戸時代を通じて宿場内の指導者としての役割を果たしました。
梅澤太郎右衛門の墓
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