中島撫山(なかじまぶざん)

ラインでシェア
Xでポスト
フェイスブックでシェア

ページ番号1010481  更新日 2025年4月24日

印刷大きな文字で印刷

 生没年:文政12.4.2-明治44.6.24 (1829-1911)
 漢学者、私塾経営者。 江戸亀戸(かめいど) (現東京都江東区) 生まれ。名は慶、通称慶太郎。字を伯章、号を撫山、演孔堂(えんこうどう)、佐麻呂といった。
 幼時、漢学を出井貞順(でいていじゅん)に学び、その紹介で亀田綾瀬(かめだりょうらい)・鶯谷(おうこく)父子に師事した。
 安政5年(1858) 江戸両国(りょうごく)矢ノ倉(やのくら)(現中央区東日本橋)で漢学塾を開いたが、翌年神田に開塾していた同門の新井稻亭(あらいとうてい) (岩槻在鹿室(かなむろ)の人)が死亡、 門下生の要請で稻亭の塾を継ぎ神田に移った。 慶応2年 (1866) 岩槻在の鹿室で私塾を営んでいた稻亭の子、桐陰(とういん)が死亡した。 門下生が前例にならって撫山を鹿室村 (現さいたま市岩槻区)に招いた。当時、江戸は騒乱の真最中であったので、これを避けて撫山も鹿室に移った。
 続いて明治2年(1869) 近くの久喜新町(現久喜市)に移り漢学塾を開いた。 明治5年、本籍を久喜新町に移し、この地に永住することにした。明治3年神道教導少講義に補せられ教導職を兼ねた。 これを機に自宅に幸魂教会を開設して地域の教導に尽くした。 その人徳と学殖を慕うもの近隣に満ち、その数1500余人といわれる。 また、撫山の次男・端蔵(たんぞう)、三男・竦之助(しょうのすけ)も父と共にこの地に移り塾生の指導に当たっている。撫山没後も漢学塾は引き継がれ、久喜地方の教学の基となって教育上大きな影響を及ぼした。一方、撫山は全国各地を遊歴し多くの詩文を残し、その著書に『演孔堂詩文』がある。 また、書をよくし、 近隣の寺社の幟(のぼり)等を揮毫(きごう)した。 久喜市の中島家宅地に撫山の碑(撫山中島先生終焉之地)が建碑された。 

典拠:『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編、埼玉県、1998年)

参考

このページに関するお問い合わせ

教育部 文化振興課 文化財・歴史資料係
〒340-0295 久喜市鷲宮6丁目1番1号
電話:0480-58-1111 ファクス:0480-31-9550
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。