本多静六(ほんだせいろく)

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ページ番号1010440  更新日 2025年4月24日

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本多静六(ほんだせいろく)

 生没年:慶応2.7.2 一昭和27.1.29 (1866-1952)
 林学者。 埼玉郡河原井(かわはらい)村 (現久喜市河原井(かわらい)) 生まれ。 折原家の6男。 10歳の時、父の死にあい貧苦の中に育った。14歳で上京、書生となり勉学、17歳の時東京王子の新設の山林学校に入学した。入学直後の第1学期の試験に落第、 失意のあまり自殺を図ったが助かり、以後思い直して勉学に励み東京農林学校から東京帝大農科大学林学科 (東大農学部) に進み、明治23年(1890) 優秀な成績で卒業した。同年ドイツのミュンヘン大学に留学、4年の課程を2年で終了して国家経済学博士の学位を受けて帰国、 母校の東京帝大農科大学の助教授に任命された。これより先、農科大学卒業時に上野彰義隊の隊長であった本多家から婿養子に望まれ、これに応じ本多家を継いだ。 32年わが国最初の林学博士の学位を受け、33年東京帝大教授に昇格した。
 業績は多方面に及んでいるが、 造林学、造園学の確立に大きな足跡を残した。その理論の発展として、国立公園、国定公園などの自然公園の創設、鉄道防雪林・津波防潮林の設定、東京水源林の開設、明治神宮神苑・日比谷公園・大宮公園等の設計等があげられる。特に日比谷公園内のイチョウは公園整備に関して伐採されようとしたが、 これに辞職覚悟で反対して移植したので 「首かけイチョウ」の逸話が今に語り継がれている。また、帝国森林会、日本庭園協会を創設してその会長にも就任した。埼玉県人会副会長、埼玉学生誘掖会会頭として、郷土埼玉県発展のために尽力した。
 特筆することとしては、赤貧の中に苦しみながら学んで漸く就職し、その代価を得るようになった静六は就職以来の報酬、4分の1貯蓄法を思い立ち、厳しく本俸4分の3で生活し、兼務の俸給、賞与、諸手当、 原稿料等一切の収入は全て貯金した。40歳で貯金利子が本俸以上になったので普通の生活に復し、50歳からは本務以外で報酬を得る仕事は研究所財産として持っていた山林等全てを公共事業に寄付して簡易生活に安んじた。
 昭和5年(1930) 秩父郡大滝村大字中津川一帯の森林4803町歩を埼玉県に寄贈して県有林として管理し、将来ここから上がる収益を蓄積して生まれる果実をもって、本県人で才能に優れながら経済的に恵まれぬ子弟に奨学資金として補助することにした。7年 「本多静六博士育英基金条例」 、28年 「本多静六博士奨学資金貸与条例」などが公布され希望の灯として現在までも光明をはなっている。 古稀の齢を一期とし、帝国森林会長以外は全て後進に譲り「現在に感謝し日に新たなる努力を楽しむ」 とその著 『私の生活信條』にある。
 享年85歳。 東京都港区青山霊園に葬られた。

典拠:『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編、埼玉県、1998年)

参考

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