安積得也(あづみとくや)

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ページ番号1010488  更新日 2025年4月24日

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 生没年:明治33.2.17-平成6.7.27(1900-1994)
 安積得也は明治33(1900) 年2月17日、父の得時、母のとしの次男として東京の深川住吉町一丁目に生まれた。 2歳の時に父が亡くなり、その後祖母も亡くなったため、 明治39年、6歳の時に母の実家である埼玉県北葛飾郡櫻田(さくらだ)村上川崎(かみかわさき)(現久喜市上川崎)の渡邊宗三郎(そうざぶろう)宅に母と兄の得和と共に移り住んだ。
 得也は櫻田村立櫻田尋常小学校(現久喜市立桜田小学校) から埼玉県立粕壁中学校(現埼玉県立春日部高等学校)、第一高等学校 (現東京大学教養学部) を経て、東京帝国大学法学部英法学科 (現東京大学法学部)へと進んだ。
 大学卒業後は内務省(ないむしょう)に入省し、主に社会局の事務官・書記官として活躍する。戦中戦後の混乱期に栃木県知事や内閣綜合(そうごう)計画局部長、東海北陸地方副総監、岡山県知事の要職を歴任した。
 戦後は、政府の社会教育審議会や国民生活審議会などの委員を務める傍ら、新生活運動や世界連邦運動に携わるなど、社会評論家として活躍した。国外では、ヨーロッパの国際夏期大学で講演を行い、クエーカー教徒の集まりであるフレンド世界会議に日本代表としても参加している。
 また、得也は詩人としても活躍した。得也の詩の特徴は、「未見(みけん)の我(われ)」の言葉に代表されるように人間の可能性を限りなく信じたところに特色がある。
 19世紀最後の年に生まれた得也は、21世紀最初の年となる2001年まで生きて19~21世紀の3世紀を生きることを目標としていたが、その志を遂げることなく平成6年(1994)7月27日に94歳で亡くなった。

参考

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