戸賀崎熊太郎暉芳(とがさきくまたろうてるよし)
生没年:延享 1.1.1 - 文化 6.5.11 (1744-1809)
江戸時代後期の剣術家。 神道無念流戸賀崎家剣初代。 上清久(かみきよく)村(現久喜市上清久)生まれ。通称熊太郎、名は芳、号は知道軒(ちどうけん)。
菖蒲領の戸賀崎城主の後裔、元右衛門の子。幼少から武道を好む。 宝暦9年 (1750)16歳で親戚を頼りに、江戸四谷に道場を開いていた神道無念流祖福井兵衛門嘉平に入門。寛政初年 (1789) あたりから幕末に至るまで、 日本国中に名を馳せた神道無念流の基礎を築いた。翌年からは場に通って稽古するのをやめ、寄宿して師に随従、給仕して修行に励んだ。剣技も上達し、明和元年(1764) 21歳で皆伝の印可を受ける。その後上清久の郷里に戻り、道場を開いて門弟の指導に当たった。また明和8年 (1771) までの7年間にわたり筐櫃(きょうひつ)の中に「撃剣器械」を収め諸道を修行した。 安政7年(1778) 35歳で江戸裏二番 (千代田区麹町二番町) の門奈孫市郎の地内に道場を開設した。 天明3年(1783) 「天明の復讐」 と呼ばれる敵討ちを門人の大橋富吉にとらせて、さらに名声が高まり、入門者が激増した。
寛政7年(1795) 12月、 道場を高弟の岡田十松芳利に任せて、郷里の上清久村に戻り、帰農。 それ以降は門弟の育成に努め、 三田三五郎暉房、 石川惣兵衛惟貞などの剣士を輩出した。 道場では剣術の伝授とともに、壁面に「演武場壁書」を掲げ、 門弟の人間教育を厳しく行った。 後裔には2代胤芳、3代芳栄、4代芳武、5代常清が継ぐ。享年66歳。 戒名は「神授院大空暉芳居士」。
典拠:『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編、埼玉県、1998年)
参考
- 市指定文化財 神道無念流戸賀崎練武道場関係資料
- 県指定文化財 神道無念流戸賀崎氏練武遺跡
- 久喜歴史だより 第10回 神道無念流戸賀崎氏練武遺跡(しんどうむねんりゅうとがさきしれんぶいせき)
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久喜市公文書館 過去の企画展図録(合併前)
第7回 神道無念流宗家戸賀崎家
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