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第74回 米津(よねきつ)氏と久喜藩の終焉(しゅうえん)

更新日:2018年12月3日

 久喜藩は貞享(じょうきょう)元年(1684)に米津政武(よねきつまさたけ)が久喜本町に陣屋を構えて成立しました。(「久喜歴史だより」第68回参照)
 その後、元禄(げんろく)11年(1698)に政武が隠居すると、長男の政矩(まさのり)が二代藩主として後を継ぎ、同14年(1701)に領地に入りました。そして翌15年には大坂城の警衛(けいえい)を勤める大坂加番(かばん)に就任しましたが、16年に赴任先の大坂で早世してしまいました。
 三代藩主として政矩の後を継いだのは弟の政容(まさよし)でした。政容は江戸で五代将軍徳川綱吉の小姓(こしょう)として仕えていましたが、兄政矩の養子となって家督を継ぎ、綱吉が没した後、役を辞して久喜の地に入りました。その後、大坂加番、大番頭(おおばんかしら)、大坂定番(じょうばん)を歴任します。
 元文(げんぶん)4年(1739)に政容が没すると、息子の政崇(まさたか)が四代藩主として家督を継ぎ、大坂加番、大番頭、大坂定番を歴任しました。しかし、大坂定番はわずか2か月で辞職しています。
 五代藩主通政(みちまさ)は政崇の息子で、大坂加番、日光奉行(ぶぎょう)等を務めましたが、寛政(かんせい)10年(1798)に、出羽国村山郡長瀞(ながとろ)(現山形県東根(ひがしね)市)に移封(いほう)されたことで、久喜の領地は幕府の直轄地(ちょっかつち)となり、久喜藩は終焉を迎えました。
 米津氏は代々、江戸や大坂で幕府の役職を担うことが多く、自らの領地で活動することが少ない大名でした。現在、久喜藩の痕跡はほとんど残っていませんが、三代藩主政容が寄進した石灯籠(いしどうろう)が久喜北一丁目の太田神社に、四代藩主政崇が書いた「普應山(ふおうざん)」の扁額(へんがく)が本町一丁目の天王院に、それぞれ大切に残されていて、久喜の地を治めた米津氏の足跡に触れることができます。


天王院「普應山」

所在地

天王院 (本町1-2-60)

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