第133回 中世関東の要地 下河辺荘(しもこうべのしょう)
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
現在市内を流れる葛西用水・古利根川は、江戸時代初頭の利根川東遷(とうせん)までは、利根川の本流筋として機能し、東遷以前はこの川を国境として、左岸側(栗橋地区と鷲宮地区の一部)が下総国(しもうさのくに)下河辺荘、右岸側(久喜地区の一部と鷲宮地区の一部)が武蔵国太田荘(むさしのくにおおたのしょう)に属したと考えられています。
このうち、下河辺荘は、平将門の乱を鎮圧した下野国(しもつけのくに)(栃木県)の豪族(ごうぞく)藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫下河辺氏が、平安時代末期に開発し、鳥羽天皇(とばてんのう)の皇女(こうじょ)しょう(※注釈)子(八条院(はちじょういん))に寄進(きしん)して成立した荘園と考えられています。その範囲は、現在の古利根川左岸側の埼玉県東部、茨城県古河市・五霞町、千葉県野田市等に及ぶ広大な地域でした。
皇族の領地として成立した下河辺荘でしたが、武士の勢力が台頭し、鎌倉(神奈川県鎌倉市)に幕府が開かれてからは、武士が実質的な支配者になります。鎌倉時代には、鎌倉幕府執権(しっけん)北条(ほうじょう)氏一族で、幕府の要職を歴任した金沢北条(かねさわほうじょう)氏の領地となり、室町時代には、室町幕府の関東地方統治機関鎌倉府(かまくらふ)の直轄領となりました。そして、15世紀中期以降は、鎌倉府がその拠点を鎌倉から下河辺荘内の古河(茨城県古河市)に移したことにより、下河辺荘は、関東地方の政治上の中心地となりました。
このように、下河辺荘は、関東地方を治める歴代の武家政権との結びつきが強い地域でした。これは、この地域が、関東平野のほぼ中央部分に位置し、鎌倉と東北地方とを結ぶ鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)の陸上交通と、利根川水系の水上交通が交差する交通・流通上の要衝であったため、武家政権が重要視したものと考えられています。
本市が、下河辺荘に属したことを今日に伝えるものとして、栗橋地区と鷲宮地区に分布が集中する香取神社(かとりじんじゃ)は、下総国一宮(いちのみや)の香取神宮(かとりじんぐう)(千葉県香取市)の信仰が、中世以降に下総国内一帯にひろまった名残(なごり)とみることができます。また、伊坂、高柳、狐塚の地名は、下河辺荘内の地名として中世の史料上でも確認され、これらの地域が、中世から今日まで続く歴史を有していることを示しています。
※注釈:人名の「しょう」は「日」の右に「章」の字です。
高柳の香取神社
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