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第54回 中世を偲(しの)ぶ菖蒲城跡

更新日:2018年7月25日

 毎年6月に開催される「あやめ・ラベンダーのブルーフェスティバル」の会場の一つに菖蒲城趾(しょうぶじょうし)あやめ園があります。その名のとおり、この場所にはかつて城があったといわれています。
 江戸時代後半に書かれた『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』によると、康正(こうしょう)2年(1456)に古河公方(こがくぼう)足利成氏(あしかがしげうじ)の家臣である、金田則綱(かねだのりつな)(後に佐々木と改姓)が城を築いたとあります。また、佐々木氏はその後、映画『のぼうの城』にも描かれた成田氏(なりたし)に仕えますが、天正18年(1590)に菖蒲城は落城し、以後廃城になったともあります。
 一説には城の完成が5月5日の端午の節供(たんごのせっく)であったことから、菖蒲城と呼び、この地域一帯も菖蒲と呼ぶようになったといわれています。
 さて、以上が文献資料から読み取ることができる菖蒲城ですが、実際はどのような城だったのでしょうか。
 平成8年(1996)に、県道川越栗橋線のバス停設置工事に伴い、菖蒲城趾あやめ園の脇で、埼玉県により発掘調査が行われました。その結果、この場所が縄文時代、平安時代、中世の複合遺跡であることが確認されました。ここからは、縄文時代の土器片、平安時代の住居跡や、掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)、須恵器(すえき)などが見つかっています。また、中世の堀状のものや土塁状(どるいじょう)のもの、染付(そめつけ)や青磁(せいじ)などの中国産陶磁器、瀬戸(せと)や美濃(みの)といった国内産陶磁器、轡(くつわ)や弾丸などの金属製品、硯(すずり)や石臼(いしうす)といった石製品など、多くのものが出土しています。しかし、残念ながら、菖蒲城の姿を明らかにするものを見つけることはできませんでした。
 菖蒲城趾の碑の周りに咲き誇る花菖蒲をご覧になりながら、戦乱の世に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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