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中島敦ゆかりの地

更新日:2017年10月12日

作家中島敦(なかじまあつし)は「山月記」「光と風と夢」「李陵」などの作品を残しました。久喜市には、漢学者の祖父・中島撫山(ぶざん)の自宅があり、中島敦が2歳から6歳までの約5年間を過ごした場所となります。

中島敦について


明治42年(1909年)5月5日 東京市四谷区に生まれる。

明治44年8月から大正4年3月(一説には大正3年2月)頃まで、埼玉県南埼玉郡久喜町の父の実家で育つ。後の作品「斗南先生」では、「利根川べりの田舎」と紹介している。

大正5年(1916年)4月に奈良県郡山男子尋常高等小学校尋常科1年に入学する。
その後、父の転勤に伴って、静岡県浜松市浜松西尋常小学校3年に、京城龍山公立尋常小学校第5学年に、それぞれ転入学する。

大正11年(1922年)4月に、京城府公立京城中学校に入学する。

大正15年(1926年)4月に、第一高等学校文科甲類に入学する。

昭和5年(1930年)4月に、東京帝国大学文学部国文学科に入学する。

昭和8年(1933年)4月に、東京帝国大学大学院に入学する。また、財団法人横浜高等女学校に就職する。橋本タカとの間に、長男が生まれる。

昭和15年(1940年)次男が生まれる

昭和16年(1941年)3月に横浜高等女学校を休職する。6月に南洋庁内務部地方課国語編修書記に決定しパラオに赴任することになり、横浜高等女学校を退職する。

昭和17年(1942年)12月4日、東京市世田谷区の岡田医院で死去する。

中島敦が久喜で過ごした幼年期について


漢学者の祖父・中島撫山が晩年の明治42年(1909年)秋頃に同じ町内の久喜本町宅から一家で移り住むために新たに建てた久喜新町宅で中島敦は幼年期を過ごした。

中島敦が久喜へ預けられた経緯は、明治43年(1910年)4月に父・田人(たびと)が奈良県立郡山中学校に単身赴任したこともあり、明治44年(1911年)頃には、父・田人と母・ちよが事実上の離婚状態になっていた。

撫山没後の明治44年8月に、当時2歳の敦はこの久喜新町宅の実家に預けられ、祖母・きく(亀田よし)などの手によって育てられながら幼年期を過ごした。
敷地内には、後に敦の就職先となる横浜高等女学校の理事長・田沼勝之助をはじめとする撫山門下生によって、昭和16年(1941年)に建てられた父・田人撰文の「撫山先生終焉之地」碑があり、現在、市指定文化財となっている。

案内看板記載文

 中島敦は、明治四十二年(一九〇九年)五月五日、東京四谷に生まれ、幼少時、この久喜の地に五年余り過ごしました。

 多くの門人を育て当地の教育の基礎となった学塾・幸魂(こうこん)教舎(さきたま教舎とも訓む)を開いた漢学者の祖父・中島撫山や父・田人をはじめ中島家の家学・漢学と歴史の豊かな素養に支えられた敦の小説は、格調高く趣き深い文体を特徴としています。作品に「山月記」「弟子」「名人伝」「李陵」をはじめ「光と風と夢」「かめれおん日記」「斗南先生」などがあり、いずれもこの作家の幅広い学識が紡ぎ出したものです。

 森鴎外の再来・第二の芥川龍之介と評されながら作家活動は短かく、持病の喘息によって昭和十七年(一九四二年)十二月四日、三十三歳の短い生涯を終えました。

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