第94回 140年前に始まった!小学校の運動会

更新日:2024年4月1日

問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係

 軍の学校で明治7年(1874)に始まった運動会は、明治20年頃には小学校にも広まっていきます。
 久喜市内では、明治21年に太田吉羽(よしば)学校(現久喜地区)と大輪(おおわ)学校(現鷲宮地区)、上高野学校(現杉戸町)が合同で、500~600人の児童が幸手・久喜間の新道で運動会を行っています。また、鷲宮尋常(じんじょう)小学校は、明治35年に大桑尋常小学校(現加須市)など16校合同の連合運動会を鷲宮神社境内で開催しています。その人数は2600人以上にのぼりました。当時は運動場がないか、小規模な学校も多かったため、寺社や堤防上、道路などを会場として、合同で開催していました。運動会の内容は、体操、遊戯、唱歌などを演じる形で行われました。また、観衆が非常に多く、児童の進行を妨げることもあったそうです。
 明治30年代以降は、各学校の校庭に運動場が整備されるようになり、次第に校庭で運動会を行うようになりました。鷲宮尋常小学校(大正11年以降尋常高等小学校)を例にとると、大正10年(1921)頃の運動会は10月13日の開校記念日に行われていました。この頃は近隣の6校の選手も参加し、100メートル走、走り幅跳び、走り高跳び、400メートルリレーなどを競技種目として、その勝敗を競っていました。昭和初期には、他校の児童を招かずに、鷲宮尋常高等小学校の児童に村内の青年を加えて行うようになりました。また、昭和6年(1931)の運動会では、蓄音機やマイクを使って放送したこと、青年男子を消防部ごとの3部に分けて対抗戦としたこと、青年女子がラジオ体操や団体競争に多数参加したことが特徴であったとの記録が残されています。
 このような歴史を歩みながら、小学校の運動会は現在のものへと繋がっていきました。


鷲宮尋常高等小学校の運動会(昭和6年)

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