更新日:2016年4月22日
久喜市本町一丁目の光明寺(こうみょうじ)に、中島撫山の神式(しんしき)の墓があり、市の有形文化財に指定され、撫山先生の略歴を記した案内板も設置してあります。中島撫山は、明治44年(1911)6月24日に亡くなり、同月27日に埋葬されました。
現在、市公文書館に保存されている拓本(たくほん)から、孫のもと臣(もとおみ)(長男靖(やすし)の子)撰文(せんぶん)の墓誌(ぼし)も一緒に埋められたことが分かってきました。もと臣は、祖父の死に対して、孔子(こうし)が自分の死を予知して歌った「泰山頽ちて梁木壊る」の言葉を引用して、その功績を称(たた)えています。
墓域には、撫山の墓のほかにも、1.撫山の妻、2・3.撫山の妹・弟、4~8.撫山の長男靖とその妻子、9.撫山の六男田人(たびと)の子など、9基の墓に、総勢10人の方が撫山と一緒に静かな眠りについています。
それぞれの墓に彫られた文字と人間関係は、おおむね次のとおりです。
「中島撫山の墓」を訪れた際に、その一族の墓にも目を向けてみると、新しい発見があるかもしれません。
中島撫山の墓
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