第4回 天王山塚古墳(てんのうやまづかこふん)

更新日:2018年12月3日

田園風景が美しい菖蒲地区の中で、菖蒲町上栢間(かみかやま)・下栢間(しもかやま)は、約550メートルに及ぶ参道林をもつ神明(しんめい)神社があるなど緑豊かな地域です。

その一つとして、「栢間七塚(ななつか)」と呼ばれる栢間古墳群があります。中でもひときわ目につくのが、県内屈指の規模を誇る前方後円墳、天王山塚古墳です。昭和6年(1931)に埼玉県指定史跡となっています。

この古墳は、元荒川左岸に位置し、全長100メートルを超す姿は、うっそうとした樹木に覆われた小山のようにみえます。

大正2年(1913)の記録によると、この古墳はかつて天王山あるいは瓢箪塚(ひょうたんづか)と呼ばれていたようです。

本格的な発掘調査が行われていないため、詳しいことはわかりませんが、付近で見つかった埴輪(はにわ)の破片などから、今から1400年余り前の古墳時代後期に造られたと考えられています。また、この埴輪片は、生出塚(おいねづか)遺跡(鴻巣市)の埴輪窯で生産されたものと推測されています。

塚の上には、角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)という石が点在しており、石室(せきしつ)(石でつくられたひつぎを納める部屋)に使われていたとみられています。この石は、群馬県の榛名山(はるなさん)産で、河川交通等によって、産出地付近から直接運ばれてきたと考えられています。

いずれにしても、この地に大きな政治力と経済力をもった大豪族がいたことは間違いないようです。

塚上の東側には、さらに高く土が盛られた場所があります。付近にある石碑から、この辺りの領主であった内藤氏(ないとうし)に仕えていた萩原久安が、文政12年(1829)に病が治ることを願い、領主の許しを得て、浅間信仰(せんげんしんこう)のため富士山を模した小山を築造したことがわかります。この石碑に並んで弘安5年(1282)銘の板石塔婆(いたいしとうば)などもあります。

また塚上には、薬師堂が建っています。昔、天王山塚古墳の北側に正福寺(しょうふくじ)という寺院があり、その薬師堂であったと伝えられています。

天王山塚古墳は、古墳時代以降も永い間、人々の心のよりどころとして、守り継がれてきました。

写真 天王山塚古墳(上空から)
天王山塚古墳

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