第108回 明治神宮に運ばれた久喜市の木~明治神宮100年の森~

更新日:2024年4月1日

問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係

 広報くき令和2年10月号の特集記事でも紹介しましたが、令和2年の11月1日で100周年を迎えた明治神宮の創建には、久喜市出身の本多静六(ほんだせいろく)が大きく関わっています。静六が設計した明治神宮の森には、全国からおよそ10万本もの樹木が集められました。今回は久喜市内の人物等からの献木について紹介します。
 久喜市からの献木の記録としては、当時の三箇村大字河原井の不二道孝心講(ふじどうこうしんこう)と桜田村大字西大輪の白石昌字(まさざね)の献木願(けんぼくねがい)が残っています。不二道孝心講は富士山を信仰する富士講の一派で、「孝行」を重視して様々な社会貢献を行う団体です。静六の実家の折原家では祖父の代から不二道孝心講の指導者をしており、献木願に書かれている総代の折原金吾は本多静六の長兄にあたります。また、次兄の吾造は白石家に婿入りしており、献木をした白石昌字は吾造の義兄にあたります。このように、久喜市からの献木の背景には故郷から静六を応援する兄弟の絆があったことがうかがえます。
 こうして久喜市から献木されたものの内、河原井のクスノキについては、運搬したときの裏話が伝えられています。当時、クスノキの輸送には大八車(だいはちぐるま)という人力の荷車を使用し、地元の青年団が歩いて運搬しました。長い道のりを経て、神宮まであと少しのところで大きな坂に差し掛かると、疲れ果てていた青年団の人たちは、お酒を飲んだ勢いで一気に坂を上りきろうと考えました。ところが、疲れと飲み過ぎのためにその場で寝込んでしまい、結局到着は翌日になってしまったというものです。このときのクスノキが明治神宮南参道の一の鳥居の右側に現在もそびえ立っています。
 久喜市をはじめ、全国各地から様々な想いが込められた献木は、本多静六の手によって森へと作り上げられました。それから100年経った現在、森は天然の様相へと変化を遂げ、静六の思い描いた天然更新の森が実現しています。


明治神宮に運ばれる各地の献木

リンク先のページで、本多静六博士についての特集記事(「特集 未来につなぐ緑と想い」)をご覧になることができます。

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