第105回 人々を恐れさせたコレラの流行

更新日:2024年4月1日

問い合わせ:文化振興課文化財・歴史資料係

 人類の歴史は、感染症との闘いの歴史とも言われています。日本でも歴史上、様々な感染症が流行してきましたが、江戸時代後半から明治時代に人々を恐れさせたのが、コレラです。
 コレラは、コレラ菌に汚染された水や食物を口にすることで感染し、発病後数時間で死亡することもある致死率の高い感染症です。元々はアジアの一地方の風土病でしたが、19世紀初頭に世界各国へと広まりました。日本では、海外との窓口になっていた長崎などから文政(ぶんせい)5年(1822)に入ってきたと考えられています。江戸から明治時代にかけて幾度もの流行があり、安政(あんせい)5年(1858)の流行では、江戸だけで26万人もの人々が亡くなったとも考えられています。埼玉県内では、統計の残る明治時代の流行をみると、明治10年(1877)に21人、明治12年に366人、明治19年に601人、明治23年に81人、明治28年に202人の人々が亡くなっています。
 このうち明治12年の流行では、栗橋地区や清久地区、菖蒲地区などで患者が発生しています。清久地区を例にとると、8人の患者が出て、3人が亡くなってしまいました。県では菖蒲地区などに検疫(けんえき)出張所を設けるなどして対策に当たりました。
 このような度重なる流行に対して、各町村に衛生委員が置かれて衛生思想や方法の周知が図られるなど、様々な対策が取られていきました。そのような対策の効果もあり、明治時代後半には徐々に収まっていきました。
 現代でも世界的にみるとコレラの感染は起こっていますが、日本国内ではほとんど患者が発生しない感染症になっています。


コレラの予防法について書かれた明治19年の『埼玉衛生雑誌』(久喜市立郷土資料館所蔵)

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