
| 種別 | 名称 | 指定年月日 | 所在地 | 所有者(管理者) |
|---|---|---|---|---|
| 史跡 | 並木五良平墓 | 昭和53年3月29日 | 栗橋東3-7-24 | 深廣寺 |
| 史跡 | 会津見送り稲荷の内殿 及び 神体 | 昭和53年3月29日 | 栗橋東 | 個人 |
| 史跡 | 静御前の墓 | 昭和53年3月29日 | 栗橋中央1-2 | 静御前遺跡保存会 |
| 史跡 | 梅澤太郎右衛門の墓 | 昭和56年6月12日 | 栗橋東3-8-15 | 浄信寺 |
| 史跡 | 池田鴨之介の墓 | 平成3年5月14日 | 栗橋東3-14-14 | 顕正寺 |
| 史跡 | 一里塚 | 平成4年7月30日 | 小右衛門516 | 真光寺 |
| 史跡 | 旗本内藤家歴代の墓所 | 平成19年3月29日 | 菖蒲町上栢間2639(善宗寺境内) | 個人 |
並木五良平(五郎兵衛)は、『新編武藏風土記稿』によれば、池田鴨之介と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596~1614)に、下総国の栗橋村(現茨城県猿島郡五霞町元栗橋)より村民を引連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。
また、深廣寺の開基となり、山内の「六角名号塔」の建立に協力し、明暦元年(1655)11月18日に没しました。法名を「梅香院光盛」といいます。
並木家の初代五良平は、幸手城が関宿城の小笠原氏に攻め落とされた時、身を隠していた幸手城主一色直朝の子輝季を当地「萬屋(並木家)」にて捕まえたという逸話があります。
また、その後子孫は宿名主を務めましたが、あるとき大洪水による飢えから人々を救おうとして、御用米を村民に分け与え、その罰により所払いをうけて小右衛門に移り住んだといわれています。

狐に乗る茶吉尼天を祭神とした珍しい稲荷社です。
江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるためにこの街道を先遣隊として進んでいました。ところが、栗橋宿下河原まで来ると地水のために通行できず、街道がどこかさえも分からなくなってしまいました。大変困っているところへ突然、白髪の老人が現われ、道案内をしてくれたといいます。そのお陰で、藩士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせたといいます。
また、道が通行できず、茶店でお茶をご馳走になっている時に、大事な物を忘れてきたことに気づき、そのために死を決意した際、この老人が現われ、藩士に死を思い止らせたともいわれています。後になってこの老人は狐の化身と分かり、稲荷様として祀ったとされています。

源義経の内妻であった静御前の墓と伝えられています。
静御前は、義経を追って奥州に向かう途中、義経の死を知り、文治5年(1189)9月15日に当地で亡くなったと言われています。当地には高柳寺(こうりょうじ)と呼ばれる寺があったので、静御前は寺の境内に埋葬され、墓上には杉の木が植えられました。
高柳寺はその後、中田(現在の茨城県古河市)に移転し、光了寺と名を改めています。
当地には静御前の墓が残されましたが、墓に墓標がなかったため享和3年(1803)に勘定奉行・関東郡代であった中川飛騨守忠英により建立されました。墓上の杉の木は弘化3年(1846)の洪水により枯れてしまい、その後銀杏が植えられています。

梅澤氏の祖先は菅原氏とされ、戦国時代には北条氏の客臣となり、塚原氏と改め太郎則武と名乗りました。
小田原城落城の後は相模国梅沢村に住み、姓を梅沢氏と改めました。その子太郎右衛門の時、慶長5年(1600)に栗橋(粟餅下)に移住し、開墾に従事しました。
元和8年(1622)4月、徳川2代将軍秀忠の日光東照宮社参の際、暴風雨のため利根川が満水となり、将軍の渡る船橋が危なくなりました。太郎右衛門は人夫を率いて水中に入り、命がけでこの橋を守り、災難を救いました。秀忠はこれを賞して、関東郡代伊奈半十郎忠治を通じて貞宗の名刀・金地に日の丸の軍扇及びお墨付きを与えました。その際に梅沢氏は、名字帯刀を許されたといいます。
池田鴨之介(鴨之助)は、『新編武蔵風土記稿』によれば、並木五良平と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596~1614)に、下総国の栗橋村(現茨城県猿島郡五霞町元栗橋)より村民を引連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。鴨之介は慶安元年(1648)12月9日に没し、法名を「光明院釈常薫」といいます。
池田家は、江戸時代初代鴨之介の子、與四右衛門よりその名を世襲し、代々栗橋宿の本陣役を務めました。
慶長9年(1604)、徳川幕府は、大久保石見守に命じて東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道をはじめとして、主要街道に一里塚を築かせました。
江戸の日本橋を基点として、一里(約4キロメートル)毎に塚を築き、その上に榎を植えて道のりを表し、伝馬制度に大きな役割を果たしたほか、旅人の休憩所にも利用されました。
付近には茶店などもあり、また、駄賃などの目安にもなり大いに賑わったと思われます。今でいえば、鉄道の駅のような存在でした。
この塚は、幸手宿と栗橋宿の中間の小右衛門村(現久喜市小右衛門)にあり、幸手宿内の一里塚の次に当たります。
現在、塚の上には、字堤外(現・権現堂川)から移築されたという弁財天堂が建てられており、塚の高さは西側から約2メートル、5間(約9メートル)四方の遺構は、塚の形態と当初の広さを残し、当時の姿を偲ぶことができます。
旗本内藤氏は、三河以来の徳川氏の家人です。初代四郎左衛門正成は、家康の父広忠の代から仕え、弓・槍の名手として軍功著しく徳川十六神将のひとりに数えられています。天正18年(1590)、徳川家康に従って関東へ入府し、菖蒲領5ヶ村に5000石の知行地を賜りました。正成が栢間の地で病に伏した際には、徳川2代将軍秀忠が医師久志本左京亮を栢間へと遣わせています。
内藤家は埼玉郡栢間村に陣屋(現久喜市下栢間)を置き、領地経営にあたりました。陣屋に隣接した内藤家の菩提寺である善宗寺には、10代22基の旗本内藤氏の墓(宝篋印塔22基)と石灯籠2基が残されています。

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