久喜市

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史跡

種別 名称 指定年月日 所在地 所有者(管理者)
史跡 足利政氏館跡及び墓 大正14年3月31日 本町7-2-18 甘棠院
史跡 寛保治水碑 昭和3年3月31日 鷲宮1-6-1 鷲宮神社
史跡 天王山塚 昭和6年3月27日 菖蒲町上栢間3284-1 神明神社・正法院

旧跡

種別 名称 指定年月日 所在地 所有者(管理者)
旧跡 神道無念流戸賀崎氏練武遺跡 昭和18年3月31日 上清久 個人宅
旧跡 栗橋関跡 昭和36年9月1日 栗橋北2-7 久喜市

足利政氏館跡及び墓(あしかがまさうじやかたあとおよびはか)

館の指定範囲は、東西140メートル・南北250メートルに及び、北・西・南の三方に空堀が残ります。古河公方第2代の政氏は、子息の高基との対立に敗れて永正16(1519)年に久喜へ移り住み、館を寺院として永安山甘棠院と命名し、子(一説には弟)の貞巖昌永を開山としました。政氏の墓は五輪塔で甘棠院境内にあり、「享禄四(1531)年七月十八日甘棠院殿吉山長公大禅定門」と刻まれています。

足利政氏墓

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寛保治水碑(かんぽうちすいひ)

鷲宮神社の拝殿前にある燈籠型の記念碑です。高さ2.6メートルの石燈籠に「刀禰上流以南修治告成碑」と記し、長文の文字が刻まれています。
寛保2年(1742)8月、利根川が氾濫し、江戸市中にも達して、幕府は諸大名に堤防等の修築を命じました。その中で、羽生、騎西領を含めた上利根川南側の地域を担当した毛利家の工事は、特に困難を極め、人足100万人以上を要しました。その完工記念に建てられた碑で、当時の難工事の様子が詳しく記されています。
なお、文章は江戸時代中頃の代表的な儒学者である服部南郭の撰文です。

寛保治水碑

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天王山塚(てんのうやまつか)

全長109メートルある大型の前方後円墳で、元荒川左岸の栢間の台地上に分布する栢間古墳群の中心をなす古墳です。前方部の高さ約9メートル、後円部の高さは約10メートル、前方部幅約62メートル、後円部径約55メートルを測り、主軸はほぼ東西をさしています。
この古墳は、石室に使われたとみられる角閃石安山岩という石があることから、古墳時代後期(6世紀終わり頃)に造られた大豪族の墓といわれています。

天王山塚

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神道無念流戸賀崎氏練武遺跡(しんとうむねんりゅうとがさきしれんぶいせき)

神道無念流は、下野(栃木県)の福井兵右衛門嘉平がその流祖ですが、明和元(1764)年、戸賀崎熊太郎暉芳(知道軒)が嘉平より免許皆伝を許され、戸賀崎家が宗家となり、安永7(1778)年江戸裏二番町に道場を開くと、門弟3,000人を数えるほど栄えました。中でも岡田十松(羽生市)、大川平兵衛(坂戸市)、斉藤弥九郎(富山県氷見市)など名剣士の出現により、天下にその名を広めました。
戸賀崎家は、新田義貞から9世戸賀崎蔵人三郎が武州戸賀崎に居城していましたが、後に戸賀崎隼人義氏が天正年間に当地に来て農民となり、義氏から8代目が初代熊太郎暉芳であると伝えられます。2代胤芳(有道軒)、3代芳栄(喜道軒)、4代芳武(尚道軒)と続き、5代保之進(好道軒)の時に道場が廃されました。
旧跡には、「福翁府君神道之碑」(流祖福井翁)「知道軒戸賀崎先生衣□(※)之蔵」(初代、2代)「戸賀崎先生碑」(3代~5代)が建ち並んでいます。

 ※巾偏(巾)に責。

神道無念流戸賀崎氏練武遺跡

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栗橋関跡(くりはしせきあと)

江戸幕府は、交通統制と治安維持の為に主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲と出女」を取り締まりました。
栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り定船場」から発展した関所の一つで「房川渡中田・関所」と呼ばれました。東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで重要な関所であったといいます。
関所の位置は、堤防の外側で利根川の河畔にあり、寛永年中に関東代官頭の伊奈備前守が番士4人を置きました。以後、番士は明治2年の関所廃止まで約250年間、代々世襲で勤めました。
大正13年には、旧番士3家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達の揮毫で、旧堤上に関所跡の記念碑が建碑され、その後数度の堤改修により移設されています。

栗橋関跡

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